船は中城湾(なかぐすくわん)に碇泊する。 通船で上陸する。 |
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龍潭から見る首里城 |
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龍潭(りゅうたん)〜 龍潭は、尚巴志が冊封使一行を接待するために、国相の懐機(かいき)に命じて1427年に造らせた池である。魚小堀(イユグムイ)ともいう。冊封使は、滞在中、龍潭で行われる龍舟園に招かれるのが慣例であった。 |
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〜弁財天堂(べんざいてん・天女橋)〜 15世紀末に朝鮮王朝から送られたお経「方冊倉経(高麗版大蔵経」を納めるため1502年に円鑑池の中にお堂が設けられ、そこへ架かる橋は天女橋で当初は観蓮橋と呼ばれていた。 |
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〜円覚寺跡〜 円覚寺は琉球における臨済宗の総本山で、山号を天徳山と称した。第二尚氏王統の菩提寺であり、琉球随一の寺院であった。尚真王が父王尚円を祭るため、1492年から3年がかりで建立したと伝えられる。先の大戦でほとんどが破壊され、現在の総門と左右の掖門は昭和43年に復元されたものである。 |
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左上 円覚寺跡から首里城に向かう。 |
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〜世界遺産・園比屋武獄石門〜 | |
(左上・左)〜歓会門〜 首里城の城郭に入る第一の正門である。中国の使者「冊封使」などを歓迎するという意味でこの名がつけられた。「あまへ御門(うじょ)ともいう。「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味し、「歓会(かんかい)はその漢訳である。門の両側の一対の獅子像「シーサー」は魔除けの意味をもつ。1500年前後に創建。沖縄戦(1945年)で焼失し、1974年に復元された。 〜龍樋〜 ここには「中山第一甘露」の石碑があり、中国の冊封使が18世紀前半から19世紀後半にかけて残した碑刻(冊封七碑)がある。 |
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〜瑞泉門〜 | |
〜漏刻門(別名・かご居せ御門)〜 | |
漏刻や日時計で時間を計測していた。 |
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城内より市街地を望む | |
〜広福門(こうふくもん)〜 「広福(こうふく)とは「福を行き渡される」という意味である。建物そのものが門の機能をもっているのが特徴である。門の正面に向かって左側が、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座」、右側が神社仏閣などを管理する「寺社座」という役所になっていた。創建は不明。明治末期に撤去され、1992年に復元された。 |
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〜首里森御嶽(すいむいうたき) 〜首里森(すいむい)とは首里城の別称で、御嶽とは沖縄の聖地または拝所のことである。琉球の神話では、この御嶽は神が造った聖地であり、首里城でもっとも格式の高い拝所の一つである。城内にはここをふくめて「十嶽」と呼ばれる10か所の拝所があったという。国王が城外のの寺社にでかけるときにこの御嶽で祈りをささげ、神女たちが多くの儀礼をおこなった。石積内の植物はガジュマロやクロツグである。1997年に復元された。 |
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〜奉神門(ほうしんもん)〜奉神とは「神をうやまう」という意味で、別名「君誇御門」ともいう。向かって左側は薬・茶・タバコなどを扱った「納殿(ねでん)」、右側は城内の儀式などに使われた「君誇(きみほこり)」という部屋になっていた。3つの入口のうち、中央は国王や中国からの冊封使等の身分の高い人だけが通ることができた。1992年に復元された。 |
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〜正殿(せいでん)〜 国王の政務やさまざまな儀式が行われた建物である。正面の石段の両脇の龍の彫刻を「大龍柱」といい、その奥にもう一対の「小龍柱」がある。その他に屋根や柱などにも龍はたくさんあり、首里城の中心的な建物にふさわしい装飾がほどこされている。 |
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〜御庭(うなー)〜 御庭では元旦の儀式など重要な祭事や、中国からの使者を迎える儀式をはじめとした外交上の儀式などがおこなわれていた。敷かれているタイルは磚(せん)という敷瓦で、この色違いの列は儀式のときに諸官が位の順に並ぶ目印でだった。中欧の道は「浮道」といい、国王や冊封使などに限られた人のみが通ることができた。 〜北殿(ほくでん)〜 「北の御殿(うどん)」とも呼ばれ、平常は王府の「中央政庁として大勢の役人が出入りしていた。また中国からの「冊封使」をもてなす宴が催された。創建は16世紀初めで、中国風の建物となっている。 |
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南殿(なんでん)の中にに入る。 |
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〜右掖門〜 |
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〜久慶門〜 | |
もう一度、弁財天堂と天女橋 | |
首里駅からユイレールでおもろまちに行く。 |
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